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蘇我倉山田石川麻呂が、641年(舒明天皇13)に造営着手した古代の寺院跡。
649年(大化5)、石川麻呂は反逆の罪をきせられ山田寺で自害。その後石川麻呂の嫌疑が晴れ、天智・天武により山田寺の造営を再開、685年(天武14)に、講堂の本尊丈六像の開眼供養が行われ山田寺は完成した。なお、この丈六像は、1187年(文治3)に興福寺宗徒により持ち去られ、現在は頭部のみが興福寺に残っている。
発掘調査により金堂、塔、回廊、講堂、宝蔵、南門の跡などを検出した。その中でも特筆すべきは、土砂崩れかなにかで倒壊した、金堂の東面回廊がそのままの形で発見されたことだ。「日本最古の木像建造物」として復原された東面回廊は、高市郡明日香村の「飛鳥資料館」で展示されていて、当時の木造建築の技術がうかがい知れる。 |
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●参考文献/河上邦彦著『飛鳥発掘物語』、網干善教監修『奈良まほろばソムリエ検定』、奈良県歴史学会編『奈良県の歴史散歩』
●初書/2007-09-14-IT |
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