669年(天智8)に中臣鎌足の病気平癒のために妻の鏡女王が山城国に山階寺を建てたのが起源。その後、山階寺は飛鳥に移されて厩坂寺となり、平城遷都で藤原不比等により現在地に移されて興福寺と改号された。
平安時代初期までに伽藍は完成し藤原家の庇護のもと、寺領を広げ大寺院を形成。南都の興福寺は北の比叡山延暦寺と並び僧兵を擁して一大勢力を誇った。しかし、平重衡による南都焼討ちによって全焼した。焼討ち後の復興による鎌倉建築、彫刻の多数が国宝・重要文化財の指定を受けている。
その後も興廃を繰り返したが、江戸時代の大火以後は復興できず明治時代の廃仏毀釈では無住の寺となり、シンボルともいえる1426年(応永33)再建の五重塔(国宝)まで売りに出される始末であったが、1882年(明治15)に法相宗の大本山となり、近年では伽藍整備が進められており、往時の姿を取り戻しつつある。 旧食堂、細殿跡に興福寺宝物収蔵庫として建設された国宝館では各時代の仏像を初めとして多種多様な寺宝が展示されており、有名なものでは乾漆八部衆立像の阿修羅像(国宝)や銅造仏頭(旧山田寺講堂本尊、国宝)がある。
南円堂は西国三十三ヶ所第九番札所、東金堂は西国薬師第四番札所となっている。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
▽キーワード |
|
●南円堂 |
西国三十三ヶ所 第九番札所
813年(弘仁4)、藤原冬嗣(ふゆつぐ)が父・内麻呂追善のため創建。現在の建物は、1789年(寛政元)の再建である。 |
|
|
|
|
|