2008年08月12日

秘すれば花なり

能の大成者観阿弥。
その出身地が桜井(奈良県)か伊賀(三重県)かで
意見が分かれている。

観世元能が1430年に書いた『申楽談儀』によると

「(前略)先は山田申楽也、伊賀国、服部の杉の木と云人の子息、おう
たの中と申人、養子にして有しが、京にて落胤腹に子を儲く、其子を、
山田に美濃大夫と云人、養じて有しが、三人の子を儲く、室生大夫、
生市、観世、三人此人の流れ也、(後略)」

とある。文中の“美濃大夫”が大和(現奈良)
磯城郡安倍村「山田」なのか、伊賀の「山田」
(現伊賀市鳳凰寺)とするかで奈良か伊賀かで
意見が分かれているのだ。

観阿弥が生まれた当時の奈良には、鎌倉時代に結成された

「円満井(えんまい」
「結崎(ゆうざき)」
「外山(とび)」
「坂戸(さかど)」

猿楽四座があった。観阿弥は結崎座(現奈良県磯城郡川西町結崎)に
「観世の座」として所属していたことから奈良県誕生説が有力視されている。


結崎にある面塚


山田寺

伊賀では郷土史家の久保文雄氏が旧家から『観世系図』を発見。
同系図には

“伊賀阿蘇田領主上嶋慶信入道景守次男治郎左衛門元成三男杉之内生”

と記されている。伊賀市守田町には、観世を名字とする家や観世田、
杉之木塚と呼ばれる場所があることから観阿弥が伊賀で生まれた可能性
が高いのだ。


伊賀市守田町の風景

ちなみに名張市(三重県)は“観阿弥創座の地”と知られている。


観阿弥創座の碑

観阿弥の妻は“伊賀国名張郡小波田の領主・竹原大覚法師の養女。
その竹原氏の祖先は山田郡竹原郷(現伊賀市鳳凰寺)で、
先の『申楽談儀』の“山田”伊賀説にも一致する。


観阿弥の妻の像(伊賀市守田町)

しかし学会では、伊賀の旧家から発見された古文書を疑問視する声もあり、
観阿弥の生誕地は未だ不明である。

@ミスター内侍原

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